石神の丘美術館での展示が昨日終わりました。
いままでたくさんの個展をいろいろな会場で開催してきましたが、過去一番人様に助けられ、また面倒をかけた展覧会でした。
実は今回の展示のきっかけは、岩手町の平澤教育長のひとことがはじまりでした。
「岩手町の素晴らしさを、古山さんの絵を通して子供達や町民のみなさんに伝えることはできないだろうか」
平澤さんは教育長に赴任となる前、何年も前から私の個展にいらしてくださっていました。ただ,教育関係者とは一切あかさずに、あくまで一人の観覧者として。
その後、小説家で美術館の芸術監督でもある斎藤純さんと私の細い縁が別の角度でからみあい、流れは平澤教育長の思いと合流、私が幼い頃岩手町に住んでいたという事実も重なって、岩手町立石神の丘美術館「古山拓水彩画展」開催へと向かっていたのでした。
いよいよオープニングセレモニー前日となった4月17日。町を代表して開館挨拶をする予定だった平澤教育長から電話が入りました。
「病院に検査にきたところ、心疾患がみつかってしまった…医者は生死にかかわる疾患だと…」
言葉を失いました。
急な手術が必須となっての緊急入院、でした。
手術は予定より延び、会期中の退院はどうあがいたところで無理、とのこと。
美術館の学芸員さんや私は、手術の成功と回復を祈るしかありませんでした。
手術が終わって一週間ほどたったころ、教育長の奥様に、様子をうかがう電話を入れましたが、疲労が電話の向こうの声にはにじんでいました。
教育長とのふしぎな縁でスタートした美術展です。学芸員の方がこんなことをつぶやきました。
「回復、あせらないでほしいですね。たとえ会期は終わっても、教育長が退院してきて皆でゆっくり話せるときまで、展覧会はかたちをかえて続く感じがしますね」
最終日前日、5月30日土曜日の朝。
岩手町内の旅館から美術館に向かう途中、助手席に放り投げていたケータイに、一本のショートメールが入りました。
美術館駐車場に着いてチェックすると、発信者表示は「平澤さん」
あわててひらくと、「明日朝、急遽退院となりました!明日、美術館に伺います」
信じられない一報でした。
最終日、平澤教育長が奥様と足取り静かに来場しました。
胸部を開けて手術でしたので、「車いすでごらんください」と学芸員さんが申し出ましたが、「歩いて観ます」
掠れた声でしたが、私としっかりと会話。ゆっくり1時間ほど館内を一巡したでしょうか。
「ちょっとつかれました。もっとゆっくり見たいので、部屋でひとやすみして、閉館前にまたきます。」
そうおっしゃって、一度自宅へもどられ、夕方再来館。
あらためていろいろな話が交わされました。
ふと、80号の絵「冬の日の対話」を前に、平澤さんの目が光って、言葉が詰まりました。
「この絵たちを、もしかすると見ることができなかったのかもしれない、と思うと、今日という日は奇跡です。言葉にならないですよ…ほんとうにありがとうございます」
奥様も
「実は2度来館して絵を見ているのですが、手術の不安に押しつぶされそうで、絵がモノトーンのようにしか見えなかったのです。今日は色がどんどん感じられます。こんなにも色合いが絵の中にあったのですね。絵は心で見るものなんだということが、今回よくわかりました」
そんなお二人の言葉と再会に、私は語る言葉がありませんでした。
昨日夕方、会期終了。
昨晩遅く、私は東北自動車道で仙台に戻りました。
仙台について、妻と娘といろいろな話をしました。
いままで何十回となくやってきた個展とは、まったくことなる、疲れたけれども静かな水辺のほとりに休んでいるような、そんな感覚でした。
石神の丘美術館では、ギャラリーでの個展とは全く違った縁やできごとがたくさんありました。
館の方はもちろんのこと、日通の美術専門のみなさん、収蔵作品を快くお貸しくださった所蔵家の方や、学校関係者。そして岩手町のみなさんと小中学校の子供達。これほど人との繋がりを意識させられた個展はありませんでした。
ありがとうございました。
これから、描くことでどう人様に関わり、生きるのか?そして描く者の役割とはなんなんだろう?
いろいろそんなことを考え直すきっかけをもらえたことが、今は最大の収穫だったように感じています。
写真は閉館間際のスナップです。(掲載許可いただいています)
写真右から、
芸術監督斎藤純さん 平澤夫人 平澤教育長 美術館学芸員の石山さん 斎藤さん 松森さん
準備から開催まで本当にお世話になりました。ありがとうございました。