夜半、気がつけば今、仙台の闇に雪がふっている。そういえば、六年前のあの日も、雪が猛烈にふっていた。
自分にとっての6年前の3月11日・東日本大震災。
水彩画個展を数日後に控えていた自分は、あらかたの個展作品は額装を終え、雑務とイラストの納期に追われていたことを思い出す。
案件は忘れもしないJR東日本の車内誌、トランベールの青森ローカル線紀行の水彩イラストだった。トランベールのイラストは、以前からやってみたい仕事だった。縁あって仕事が舞い込み、3月11日はその受注第一回目の「納期」だった。
締め切りは夕方だった。絵は午前中に仕上がっていた。昼過ぎに原画データを大容量送信サービスで送り、ほっと一息。寝室でベッドに横になっていた時、揺れがきた。
二階にある仕事場はドアが開かないほどかき回されていた。その現場を見た時、「ああ、午前中にデータ納品しておいて良かった」と思ったことも思い出す。
その瞬間から、「さあ、仕事が無くなるぞ=ギャラが入らないってことだ。どうやって米を買う?」という日々がはじまった。受注仕事=イラスト仕事がなければ、フリーランスはバンザイお手上げだ。ひたすら絵の展示をして買ってもらうしかない。きれいごとは効かない。
奇しくも揺れた日から4日後の3月15日から予定されていた個展の内容は、三陸を描いた絵が大半をしめていた。家とは別の場所に保管していた額作品は、大きな揺れの中、落ちることなく、まるで出番をまっているようだった。
それを知った開催画廊のマネージャーの決心で、余震の続く中、個展を決行。(開催ではない。決行だ。だって、津波で流されてしまった風景をずらりとラインナップしていたのだ。場所は仙台だ。家族を亡くした方や家を流された方だってたくさんいるのだ。石を投げられても当然だった)
「アーティストに何ができるか?」なんてマスコミがのちによく取りあげていたけど、そんなこと考えている余裕は正直なかった。「絵が描けなくなりました」という声も何度も聞いた。その気持ちは痛いほどわかった。でも、描くことしかできない自分が描けなくなったら、結果は自ずと「ジ・エンド」だ。
被災地のだれもが必死。ならば、家もあり家族も無事、紙も絵の具もあった自分は、ただ、ぎりぎりがしがしと食う為に描く。
数ヶ月は彩度の低い色しか出せなくなった。それでも、行動が答えだ、そう思って何でも描いた。描きたいテーマがみつかれば、ガソリン代を工面して追いかけていった。実は、拙著「子規と歩いた宮城」は、その結果だったりする。本の中には書いていないけれど、当時の取材の記憶は、まるで粒子の荒い戦時中のフィルム映像のような印象だ。
今、思いめぐらしてみると、走っている間はまったくきがつかなかったけれど、2011年3月11日はあきらかにひとつの境界線になっている。
この六年、描くことで人様から生きる糧をいただけたことは奇跡的だった。
311はある意味、最果てだった。
自分の事務所の屋号は「ランズエンド」。訳すなら「地の果て」だ。
新幹線に乗り、旅の情報誌「トランベール」を手に取るたびに、あの日を思い出す。
311という荒れ地の最果てから、ここまで旅がつづけられていることに、感謝します。それが今の気持ちです。
絵は「ある日の七ヶ浜」です。震災前に取材していた鉛筆スケッチに、震災のあと、色付けした一枚です。
posted by タク at 00:59| 宮城 ☁|
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