2012年01月17日

「子規の風景」 第14回 多賀城

昨日1月16日付け河北新報に連載の「子規の風景」をアップします。
今回の場所は、塩釜=仙台の中間地点、多賀城です。その昔大和朝廷の時代、この多賀城が、朝廷側の東北蝦夷制圧拠点となりました。
その政庁跡が今の多賀城には残っています。
正岡子規が訪れたのは明治26年7月30日のことでした。

子規の風景 はて知らずの記をたどる

「風景の向こうに歴史」

多賀城


「のぞく目に一千年の風すゞし」
子規

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 富山観音を下った正岡子規は、再び船上の人となる。塩釜で船を下り、多賀城政庁跡へ先を急ぐ。そして遺跡の傍らに立つ「壺の碑」(つぼのいしぶみ)を前に詠んだのが、今回の句だ。壺の碑とは、西行らによって詠み継がれたみちのく憧憬(しょうけい)の歌枕なのだという。

 言うまでもないが、多賀城は、大和の時代、蝦夷(えみし)征伐において朝廷側の拠点となった地だ。対蝦夷戦の前線基地といえば分かりやすいか。そんな時代から時は千年以上過ぎ去った。けれど東北に根を持つ者にとっては、多賀城跡は今なおアイデンティティーを問いかけられる場所の一つと思えてならない。

 岩手生まれの私は、表題の句を歌枕にこの絵を描いたのか?と問われると、答えに詰まる。あえて返すなら、私の歌枕は、丘の向こうに連なる「蝦夷の時代から今につながる名もない人々」だ。

 過去は、時として墓石のような衣をまとう。しかし、何げない風景の向こうに目を凝らすと、キャストとカット割りを変えつつ、今なお繰り返される「歴史」が見え隠れしている。

絵と文/古山拓
picture & text by Taku FURUYAMA all rights reserved






posted by タク at 15:36| 宮城 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 子規の風景-はて知らずの記をたどる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
名画と名文に酔いました。実はとても深い内容をさりげなく気負わず、しかし実に味わい深く表現。さすが蝦夷の末裔タクさんです。阿弖流為のスピリットを感じました。
Posted by セバスチャン at 2012年01月17日 20:23
紙面の6割(?)を占める手前の緑の原に圧倒されました。奥の石段などとの対比に見とれました。「朝廷側の基点だ」と、立場もよくわかります。
Posted by こみや at 2012年01月17日 22:43
セバスチャンさん、文章のプロからいわれると、恥ずかしいですが、とてもうれしいです。ありがとうございます。
そして、あえて書かなかった(文章量の制約もあって)阿弖流為にまで言及しくれた事、ますます感謝です。
Posted by たく at 2012年01月18日 09:00
こみやさん、この地はいかれているかと思いますが、どう描けばいいんだ?って、いつも思います。
とはいえ、何度か描いていますが、今回のアングルは初でした。難しい!です、多賀城は。
Posted by タク at 2012年01月18日 09:03
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