2016年03月13日

パリは燃えているか

映画で生き方が激変するとは思っていない。
だけど、多分に自分の嗜好、右左選ぶクセ、行動の規範みたいなものは、いままで観てきた映画に少なからず影響されているといってもいい。

育った世代的に、映画は非日常エンタティメントの代表格だった。だから、当然といえば当然なのかもしれない。ま、やたらと影響受けやすい自分の単細胞的な性格あってのことだけど。

思い返すに深く影響受けてしまったに違いない映画の一本に「パリは燃えているか?」がある。
正直、今、ほとんど内容は覚えていない。なにせこの映画を見たのは今から40年前の中1の時だ。

中学に入って吹奏楽部へ入部した私の好きな音楽ジャンルは、ビートルズでもストーンズでもなく、実は映画音楽だった。

こずかいを貯めてようやく買った一枚のLPレコードは戦争映画のサントラ集だった。
その中に一曲のワルツがあった。心惹かれて何度も聞き直した。そのワルツが使われていた映画のタイトルは「パリは燃えているか?」だった。

こんな素敵なワルツが使われている戦争映画って、どんな映画なんだろう?「パリが燃える」ってどういうことなんだ?大人は変な言葉を使うもんだな…ってライナーノーツを読んで思ったことを覚えている。

岩手の片田舎の小さな町に住んでいた私は、土曜の昼さがり、「パリは燃えているか」がテレビで放送されることを知り、部活をサボり、全力疾走でテレビの前に滑り込んだ。と言っても家のテレビではない。
家は学校から離れていた。どうがんばっても放送開始までたどり着けなかった。なぜか父が、会社を経営する友人に根回ししてくれて、私はその父の友人宅へ上がり込んだのだ。そんなお付き合いが許された古き良き時代。

ちなみにその社長と古山家は今でもお付き合いがあるという、大河ドラマ的スケール感パナビジョン。

話がそれたので戻す。
映画の内容はパリ解放のそれだった。劇中頻繁に登場したレジスタンスというキーワードは、多感な中学一年生のココロに根を張り、その後もずるずると引きずることになる。

といっても、アンチな活動に参加するわけじゃない。気がつけば社会の主流があれば、なぜか自分が立ってるのは傍流、団体に権威のカゲを見れば即離脱。「私のそばにいれば悪いようにはしないよ」なんてささやかれた暁には即刻脱退。(実際ささやかれたことがあるし、手を変え形を変え、社会の型のひとつになっている。世の中はそういうものなのだ)
こんな流れで生きてくると、堂々たる人生とは程遠い今に至るわけだ。

しかし、この先せいぜい生きたとしても中学から今までの年月分はあり得ない。だから、今まで生き延びられたということで、すでに映画の影響の元は取った、と思うことにしよう。

先日、レンタルビデオ屋でその「パリは燃えているか?」のDVDが復刻されているのを見つけた。いったんDVDを手にしたけれど、一呼吸置いて棚に戻してしまった。

一呼吸の間。
その時に駆け巡ったのは、ここまで書き連ねたことだったと思う。
さらに言えば、棚に戻したのは、今、見ることで、40年前という年月が空っぽになるのが怖かったから、なのかもしれない。

映画の舞台となったパリをはじめて訪れたのは2001年だった。イタリアからフランスブルターニュへ向かう旅の途中だった。降り立った駅はモンパルナス。
その旅以前もヨーロッパはあちこち旅していたので何度かパリを訪れるタイミングはあったのだが、「パリは別格だ。芸術に本気で取り組む人間が訪れる場所だ。チョロい自分がおとずれるには、相応しくない」と、迂回していた。本気でそう思っていたのだから、若き日の思い込みは怖いものだ。

2001年、イタリアからの夜行列車に揺られて、おそるおそるたどり着いた花の都。そこは「パリは燃えているか」のワルツが似合う「光の町」だった。

映画を観てから月日はめぐり、はじめてパリを描いた作品、それは鉛筆デッサンで逆光に浮かぶ街角を切り取ったものだった。
「パリは燃えているか?」が誘った一枚。
その絵は2001年の個展「ケルトの地へ2-トスカーナ・ブルターニュの旅」展で嫁いでしまって既にない。





posted by タク at 00:06| 宮城 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
日頃ソフトな拓ちゃんが、権威権力ときっぱり距離を取っているのが面白いよね。
逆に言えば、権威によらない人間関係をあれだけ広げているのはすごい。

私も思い出の映画『7人の侍』を最近見返しました。
ちょっといいエンターテインメント映画みても、『いやいや、7人に比べたらまだまだ』とずっと比較の絶対的基準だった。

結論は『見ない方が良かった』が70%かな。
あの雨の中の決戦シーンはどんなCGでも太刀打ちできまい、、、そんなことないんだよね。7人を越えようとたくさんの映画が作られ、オイラもそれを観ている。少しずつ刺激に慣れ、ただ30年前の記憶のなかだけが冷凍保存されていたのだ。

だが、人間ドラマの部分は色褪せず今も胸にしみる。
菊千代は武士と農民の間をつなぎ、時に農民の立場から苦悩を屈折をずるさをしたたかさを説く。

やっぱ見直して良かったか?(^_^)
Posted by くわちゃん at 2016年03月16日 15:12
くわちゃん、だから儲からない、んだね〜。

七人の侍は金字塔ですが、人間は金字塔を糧に乗り越えていくものだもんね。しかし、いいなあと心にしみる映画は、普遍的な内容だったりするのが不思議だ。
親子の確執と邂逅だったり、権威と反権力だったり。
表現手法=映画技術はもちろん進化していくけど、あらためて「人間自体」はそう昔から変わらないものなんだと思うよ。
Posted by タク at 2016年03月17日 16:35
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