2013年08月03日

子規は冒険家だ。

なんとか、ほんっとなんとか岩手湯本温泉に辿り着きました。

朝イチ、秋田から八郎潟まで北上。ここで絶ピンモチーフにまた出会ってしまい、予定大幅オーバー。

秋田に戻って、子規の羽州街道ルートを六郷まで南下。
運悪く、否、運良く^_^;夏祭りにぶち当たり、交通規制でウロウロ。
はやめに六郷は切り上げ、今日のメインイベント、六郷から湯本へ、山越えルート走波。

この山越えが、悪路なんてもんじゃない。多分、いや、間違いなく道路管理関係者しか走っていない…。だって、ダートのわだち、キャタピラの跡だらけだったもの。
地図写真アップしますが、左上が六郷。右端が湯本温泉。両方を繋ぐピンクのラインでなぞった細道が、120年前に子規が、で、今日、ワタシが山越えしたルートです。

因みに、子規の文面からも不安感が覗きますが、クルマの私でさえ「この山道、マジ、やばいよ…」
と思いましたから、夕闇のなか九十九折の細道を歩いた(!)子規の心中はいかばかりか…。

ジャリ道といっても、登れば登るほど道が流水に流され、ほっくり返され、凸凹なんてもんじゃない。前輪駆動のプジョーちゃん、よくがんばったなあ…。
止まったらスタック必至という砂利の大きさプラス登板角度プラス対向車来たら、どっちかがバック、というすんごい道でしたが、その悪路13キロ、一台の対向車もこず、出会ったのは、キツネ一匹。ほんとです。

峠を二つほど越え、民家が見えた時は、思わずクルマを停め、ドアを開け、外に出て、クルマに、ようがんばったのう…と、話しかけていました。

というわけで、アクセルワークとハンドルさばくのでせいいっぱいで、悪路写真はありません。

運転してる時、考えていたのは、子規のこと。
はっきりいいます。彼は冒険家でもありますね。
明治24年、国土地理院がつくっていた地図を子規は持っていましたが、それでもこんなに辛い道だとは思わなかったと思うよ。

悪路に入る前、黒森峠から見下ろした景色は、絶景でした。
しかし、黒森って名前が不安感倍増でしたね。黒い森、ダークフォレスト…なんといいますか、なにか魑魅魍魎のたぐいがうごめいていそうじゃないですか(笑)

明日は水沢まで取材です。全行程、あたりまえだけど舗装路。楽チンだね♩


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2013年03月22日

正岡子規特別展-仙台文学館

4月20日から、6月9日まで、「仙台文学館」で『正岡子規特別展』が開催されます。
子規がみちのくを旅して「はて知らずの記」を発表した明治26年から、今年で120周年を記念した展示です。

私の「子規の風景」水彩画展も、同会場にて展示替えをしつつ2回にわけ併催。ギャラリートークも二回します。

この文学館展示に間に合わせるべく、2011年から一年半近く河北新報連載内容を画文集にまとめよう。そう思いたったのが2012年の暮れ。
年が明けて1月から、制作費調達からスタート。
原稿書き直しに継ぐ書き直し。
大嵐のなかの木っ葉のごとしでした。

本のタイトルは
『子規と歩いた宮城』「はて知らずの記」水彩紀行
画集は96頁の全頁カラー。
出版元は、丸善仙台出版センター。
価格は、本体¥2,300+消費税。

新聞連載原稿を大幅に加筆修正&再構成。
国文学を専攻している友に編集協力をあおぎ、俳人から寄稿いただくなど、せいいっぱい編集したつもり。
のこすところ、本文・表紙最終校正+オビの文入稿…。もうひといきだ。

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2012年12月01日

正岡子規「はて知らずの記」連載全文

2011年6月から2012年8月まで河北新報夕刊に連載のスクラップをpdfでアップしました。ブラウザでご覧になれます。
興味のある方はどうぞ、ご覧ください。
(新聞切り抜きをスキャンしたままで、画像補正をかけていません。画質、色の悪さはお許しください)
hatesiraz_zenbun1_2_web.pdf


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2012年08月28日

子規の風景「はて知らずの記をたどる」最終回 

おはようございます。昨日、河北新報夕刊に掲載となった正岡子規みちのく紀行連載をアップします。
おかげさまで今回を持って連載も終了です。
長かったようであっというまでした。
はて知らずの記のコピーをくれた某放送局のS氏、そして新聞社と繋いでくれたA氏、稚拙な内容で毎回迷惑をかけていた編集部のS氏、K氏、そして最後まで読んでくださった皆さんに、心から感謝申し上げます。

オレガオレガと自己主張ばかりで、肝心の子規解釈はほとんどなかった駄文と、毎回ころころかわるこれまたヘタクソな絵におつきあいいただき、本当に恐縮しています。ありがとうございました。

新聞連載は宮城県内の紀行を辿るところで終わりますが、子規が東北に辿った道のりを、引き続き山形の現地へ取材しています。また、続きをブログでアップしていければと思っています。

*  *  *


最果てへ-最終回

秋風や旅の浮世のはてしらず

子規


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 机の上に中心で折り返した長いひもを置いてみる。折った部分をつまみ、渦巻きを作ってみる。中心へ向かうひもの片端はスタートへ戻っている。旅はそんならせんひもに思えてならない。はるかな旅路は同時に始まりへと還る道だ。
 子規はみちのくの果てを目指した旅で何を得たのか? どんなに遠くまで芭蕉の足跡をたどったとしても、しょせんはトレースだ。果てなど分かるはずもない。逆に「自分自身」こそが「目指すべき果て」だと気付いたのではないか。
 子規は出羽路を酒田に抜け、八郎潟まで北上、そこで折り返し帰路につく。水沢から汽車で上野に戻るくだりは実にあっけない。そして根岸の子規庵で詠んだ掲句で、はて知らずの記は終わる。
 実は私はアトリエに「ランズエンド」なる屋号を掲げている。直訳すると「地の果て」だ。そんな私が、はて知らずの記と出会ったのは、この最後の回を書くためだったような気がしている。
 一番遠い最果ては自分自身、そしてすべからく「果ては始まり」…。子規もまたそう思ったと信じたい。


絵と文/古山拓
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2012年08月19日

子規の風景「はて知らずの記をたどる」第28回 関山

すみません、前回のアップから10日ほどたってしまいました。
いつも読んでくれている方から「大丈夫?」と、心配メールが届きました。体調は万全、山形個展の準備に終われ+お盆の息抜きで気がついたらあっという間の10日間でした。Facebookでは数行アップをこまめにしていたのですが、ブログとなるとSNSとは構えが違います(ブログをお読みくださっている方でFacebookに参加している方は、遠慮なくトモダチリクエストしてください〜♩)
ご心配かけてすみません。そして、きにかけてくださってありがとうございます。で、久しぶりのアップです。

+++++++++++++


昨晩、作並温泉岩松旅館社長と懇談。きっかけは正岡子規の新聞連載でした。
これから、仙台と山形をつなぐ場所に位置する「作並温泉」に対して、私が何ができるかを考えていくことになりそうです。
子規はいろんな縁を繋いでくれています。ロビーには新聞連載のパネルが貼りだされ、紹介、気恥ずかしかった(汗)。
で、流れで一泊。久しぶりに深く眠れたかな。

二月ほど前、取材の事を伏せて、岩松旅館にオシノビ宿泊してきましたが、今回はオフィシャル(笑)。支配人さんや板長さんとも知り合えて、はからずともなじみの宿になりました。

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料理、露天風呂ともすばらしい宿です。

♬ ♬ ♬

さて、そんなわけで、先週13日に河北新報夕刊に掲載された「はて知らずの記をたどる」をアップします。
実は次回27日掲載が最終回。最後の締めくくりの絵は、完成にたどり着くまで4枚ボツにしています。エピローグゆえ、思い切り気持ちに素直に描いたら、今回の絵とはちょっと違ったものとなりました。お楽しみに。

関山

蝉の声いつしか耳に遠く 一鳥朝日を負ふて山より山に啼きうつる
樵夫の歌かすかに其奥に聞こえたり。

「はて知らずの記」より抜粋

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 回を重ねてきた連載も、次回が最終回だ。正岡子規は、宮城、山形、秋田、岩手と回り、汽車で上野に戻るのだが、子規の足跡を宮城にたどる本連載は、彼が山形へ抜けるところで一区切りとなる。

 明治26年7月27日に宮城入りした子規は、岩沼、仙台、松島、そして作並から山形へ。8月6日、関山の旧街道に最後の足跡を記し宮城を後にする。

 私にとって、子規の関山越えのくだりでもっとも印象に残ったのは、句ではなく表題の一文だった。作並の宿を出発し、峠にさしかかるくだりだが、静かな山あいの情景が、音が、心に浮かぶ。

 遠ざかる蝉(せみ)の音、山間をわたる鳥の鳴き声、そしてどこからかこだまするきこりの歌声。子規の聴覚が関山の陰影を際立たせる。そして、彼が宮城で詠んだ最後の句はこれだ。

 隧道のはるかに人の陰すゞし

 子規のくぐった隧道(ずいどう)は、現在の関山トンネルではない。閉鎖された旧道の奥に、それはある。私が旧道を訪れたのは初夏。通る人はもちろんなく、勢いづいた緑が行く手を阻んでいた。

絵と文/古山拓
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2012年07月31日

子規の風景「はて知らずの記をたどる」第27回 作並温泉・下

昨日7月30日付の河北新報夕刊に掲載になった「はて知らずの記をたどる」連載アップです。
前回に引き続き作並温泉「岩松旅館」です。

作並温泉・下

夏山を廊下つたひの温泉かな
子規


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 前回書いたように岩松旅館ではその場で描くことはしていない。この絵は風呂から持ち帰った「記憶」を基に「印象」をざくっと刻んだ素描を下敷きにした。前回の古時計の絵も制作過程は同じだ。
 子規は言葉による「写生」にこだわった。とはいえ、どんな場合でもその場で紙と筆を即座に取り出したと考えるのは、ナンセンスだろう。絵も同じだ。
 絵には想像力、そして記憶の連結力が欠かせない。もちろん現場デッサン力は必須だが。
 まっさらな紙に向かい「記憶」と対話しながら、過去に見た風景を紡ぎ出す。そこには描き手の過去何十年という経験が意識せずともにじみ出る。山や川、町並みや空を描き出したそれは、実は描き手そのものでもあるのだ。
 今回の句は、旅館内でも案内されているが、彼が作並で詠んだ句を幾つかここに紹介しておこう。
 ちろちろと焚火すゞしや山の宿
 はたごやに投げ出す足や蚋のあと
 私が子規の句に感じるのは、写生された印象にかぶる生々しい彼自身の姿だ。

絵と文/古山拓
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2012年07月11日

子規の風景「はて知らずの記をたどる」第26回 作並温泉・上

先日7月9日付の河北新報夕刊に掲載になった「はて知らずの記をたどる」連載アップです。
今回は作並温泉。舞台は仙台から車なら40分くらいの山間の温泉宿「岩松旅館」です。その老舗旅館に子規は投宿していました。

作並温泉・上

涼しさや行燈うつる夜の山
子規


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 「作並温泉に投宿す。家は山の底にありて翠色窓間に滴り水聲床下に響く。絶えて世上の涼炎を知らざるものの如し」
 表題の句と前文は作並温泉に着いた子規の言葉だ。家とは現在の岩松旅館。私も子規の感じた作並時間を追体験してみたい、と、老舗に部屋をとった。
 旅館の風呂は、長い廊下を降りた先にあった。もちろん湯船にスケッチブックを持ち込むことなどできるはずもない。「これは記憶が頼りの取材だな」と、タオルだけを手に廊下を降りていった。
 露天風呂の傍ら、渓流がごうごうと音を立てる。「子規が見た風景が変わらずここにある」そう思ったとき、心にある言葉が響いた。学生時代学んでいた古代ギリシャ史の恩師、O教授の声だった。
 「私の時計はね、2000年前で止まってしまっているんですよ。ありがとう」
 卒業時、私たちがプレゼントした時計を手に、師がつぶやいた言葉だった。師は、時を自在に行き来できる心を持て、と伝えたかったのではないか…。そう思った瞬間、長廊下に掛かっていた古い柱時計が脳裏にフラッシュバックした。

絵と文/古山拓
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2012年06月26日

子規の風景 「はて知らずの記をたどる」第25回 作並街道

昨日6月23日付の河北新報夕刊に掲載になった「はて知らずの記をたどる」です。
作並街道

「山路深く入れば峰巒(ほうらん)形奇にして雲霧のけしき亦ただならず」
(はて知らずの記)


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 熊ケ根から作並へひたすら歩く子規は、その風景を表題のようにつづっている。見知らぬ地を進む旅人としての心境を、この一文は見事に表している。
 以前、英国のダートムアなる荒野を、ひとり徒歩で歩いたことがある。もちろん地図は持っていた。けれど初めてたどるルートだ、風の音と自分の足音、そして呼吸音しか聞こえない世界にじわりと不安感が迫ってくる。子規の一文から私はそんな荒野の旅を思い出していた。
 風景は、そのときの気持ちで見え方が変わるものだ。楽しげな気分で見上げる山と、不安感に包まれて囲まれる山では、その迫り方は全く違ったものとなる。色彩もまた同様だ。山も木々も空模様も、それ自体はただそこにあるだけだ。けれども実はその姿は、見る人の心模様に応じて優しくも厳しくも変化する。
 作並街道の傍らへ車を止め、細い歩道を歩き出した。傍らをごう音を立て大型車両が通過する。風圧がすごい。しばらく歩き、ふと子規が「感じた」風景はここだ、と立ち止まった。スケッチブックをひらき、山並みと対峙(たいじ)した。

絵と文/古山拓
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子規の風景 「はて知らずの記をたどる」第24回 熊ヶ根

子規の風景 「はて知らずの記をたどる」熊ヶ根

山奇なり夕立雲の立ちめぐる
子規


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 落合から愛子を抜けた子規は、作並へと向かう。はて知らずの記に、「野川橋を渡りて…」というくだりがある。表題の句は、今の地名でいう熊ケ根付近の風景描写の後に紹介されている。
 子規の東北旅を知る前に野川橋付近をスケッチ旅で知っていた私は、彼の記述に思わずうなずいていた。ちなみにこの橋は、小さいながらも現役だ。
 野川橋周辺の風景を知ったのは、広瀬川上流にモチーフを探していた時だ。陸前白沢を過ぎて小さな脇道を見つけ、くねる坂道を下っていった。辺りには旧街道の「におい」がしていた。広瀬川に架かる野川橋に立ち、左右を見渡した。蛇行する川面からそそりたつ黄土色の地層に思わず息をのんだ。
 仙台近郊のあちこちをスケッチして歩いているけれど、この場所を見つけた時の興奮はいまだに忘れられない。素晴らしい風景との出合いは脇道にそれる楽しみを知っている人に与えられた特権だ。
 涼を求め川原に遊ぶ家族連れの歓声が、水面を渡る。子規の句に、初夏の色がオーバーラップしていた。

絵と文/古山拓
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子規の風景 「はて知らずの記をたどる」第23回 陸前落合

子規の風景 「はて知らずの記をたどる」陸前落合

「涼しさや山の下道川つたひ」
子規


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 八幡から国道48号を山形方面へ向かうと、広瀬川を跨ぐ生瀬橋がある。子規がとった道筋は、橋の手前を右に折れ川を左に見るルートだ。しばらく進むと、赤い小さな新落合橋がある。彼はそこで広瀬川を渡り愛子へと向かった。
 実際に現地を訪れた。小さな畑や民家、社屋がぽつぽつと続く静かな風景だ。右手には山が迫り、左手にはうっそうとした木々越しに、川へと落ちこむ対岸が見え隠れする。
 話はそれるが、先日、ある会合で伊達藩の町づくりの話を聞く機会を得た。興味深かったのは講師の方が「時を経て町並みは変わったけれど、「空間」は変わっていない。そのことの大切さに気付いてほしい」と語っていた事だ。
 ともすれば、時代とともに景観は変わったと思いがちだ。だが山河の醸す「空間」はそう変わるものではない。たしかに百年という時は多くの建物のたたずまいと行き交う人のいでたちを変えた。しかし子規が渡った広瀬川と河岸、山塊が作り出す空気の器は、彼がたどった空を今に伝えているように思えた。

絵と文/古山拓
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子規の風景 「はて知らずの記をたどる」第22回 八幡

子規の風景 はて知らずの記をたどる

「廣瀬川に沿ふて遡る」
(はて知らずの記)


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 正岡子規は、出羽へ向かうルートとして関山越えを選ぶ。それは広瀬川に沿う道だ。徒歩で峠へ向かう彼に、川渡る風は最上の涼だったに違いない。
 以前、広瀬川を源流付近から河口まで辿ったことがある。きっかけは、広瀬川をテーマに開催された美術展だった。私にとって制作のための現地取材は新鮮そのもの、普段何気なく見ている広瀬川を見直すこととなった。その地に暮らしていると、当たり前すぎて見逃している事は思いのほか多いものだ。
 当たり前といえば、今普通に使われている表現に口語体がある。思考をしゃべり言葉に置き換えるというそれは、実は明治の表現変革を経て辿り着いたものだ。子規は友人であった夏目漱石らとともに思考の表現維新に関わった。
 子規の文体は単純明快だ。冒頭の言葉はわずか九文字。だがそれは、子規が、文学者として時代と戦っている姿だと私は思う。
 当たり前に見える原野に、疑問符という鍬をざくりと振り下ろす。その鍬が新しい時代を切り開いてゆく。

絵と文/古山拓
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子規の風景 「はて知らずの記をたどる」第21回 国見

子規の風景 「はて知らずの記をたどる」国見

涼しさを君一人にもどし置く
(子規)


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 絵は国見のうなり坂付近から山形方面を見たものだ。5日間の仙台滞在後、子規は、山形に向けて旅立つ。最後の2日間は国見の南山閣に滞在し歌人鮎貝槐園(かいえん)と文学談議に花を咲かせている。8月5日、2人は共に唸り坂を下り、大崎八幡神社の門前で分かれ、子規は出羽路を歩き出す。
 右へ行こうか、左へ向かうか。
 この時の感覚ほど「旅」の機微を集約している気持ちはないと思う。見知らぬ地で分かれ道にぶつかった時の、全身がアンテナになったような感覚。私も今までいくつかの異国の地をさまよったけれど、岐路に立ち感度を高めることが、風景や人との出会いを招いてくれた。
 出羽路という、見知らぬ世界への岐路に立った時、子規はどんな感覚で歩き出したのだろう。
 この回が掲載される4月は、この国ではさまざまな岐路がおとずれる春だ。
 日々是旅なり。
 人生のつじに立ったとき、道筋を自分の決意で選び取る。そのことは、輝く未来へつながっていると信じたい。


絵と文/古山拓
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子規の風景「はて知らずの記を辿る」第20回 瑞鳳殿

子規の風景 はて知らずの記をたどる

涼しさや君があたりを去りかねる
(子規)


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 子規仙台遊覧の一日は、宮沢仮橋を渡り愛宕神社に詣で、伊達政宗の霊廟(れいびょう)瑞鳳殿を訪ねることで終わる。
 彼は廟へのアプローチの印象を「老杉翁鬱山路幽凄堂宇屹然として其間に聳ゆ」と記している。現地に立った私は、あらためて彼の言葉のデッサン力の確かさに立ち止まってしまった。
 現在の瑞鳳殿は、第2次大戦の空襲で焼け、1979年に再建されたものだ。しかし子規は1637年に建てられたままの姿を明治期に見た。当時、門は閉ざされていたようだ。彼はその隙間から霊廟の彫刻彩色に感嘆し、句に「君」と詠んだように伊達政宗へ思いをはせている。
 スケッチブック片手にその瑞鳳殿を歩いたけれど、どうにも子規の姿が脳裏に浮かばない。実は今までの連載の絵の多くは、子規の姿が構図の中にオーバーラップしたときに筆が走っている。
 廟を描く事を諦め、感仙殿へ向かう道にさしかかった時、ふと子規の後ろ姿が道の先に見えた気がした。
 冒頭の句の「君」。それは私にとっては、まぎれもなく子規だった。


子規の風景「はて知らずの記を辿る」第19回 愛宕神社

子規の風景 はて知らずの記をたどる

川のかなたは即ち仙台市にして高楼画閣掌中に載すべし。
(はて知らずの記)


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 子規が広瀬川沿いにある愛宕神社に登ったのは8月2日だ。「はて知らずの記」には、崖の真下、広瀬川に遊ぶ釣り人や、川泳ぎに興じる人の描写がある。けれども句の記載はない。
 実際、神社に登ってみた。冬枯れの樹々の向こうにビル群が広がっていた。寒い日ではあったけれど、街を自分の腕に心地よく抱え込める、そんな場所だ。
 断崖から対岸を見た子規が、このアングルを前に句を詠まなかったはずはない、そう思い草稿集を当たってみた。 
 実は「はて知らずの記」は、半紙に墨書された16枚の草稿がベースとなっている。今に残るそれは、紀行に掲載されなかった句をも知ることができる貴重な資料だ。しかし残念ながら愛宕神社の記述にかかる一枚は欠落紛失していた。
 何事においても、わからないことは、イコールマイナスではない。思いを巡らすという遊びがそこには生まれる。この風景を前に、子規はどんな言葉で遊んだのか…。私なりに一句、と構えてみたが、わかったのは己の歌詠む才のなさ。結局、川向こうの仙台市街に絵筆で遊んだ。



「子規の風景」 第18回 仙台・宮沢橋より愛宕山をのぞむ

子規の風景 「はて知らずの記をたどる」のアップが滞っていました、、、
ずいぶん遡ってしまいますが、新聞連載を転載します。

子規の風景 はて知らずの記をたどる

「宮澤渡りの仮橋を渡りて愛宕山の仏閣に上る。」
(はて知らずの記)


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 毎回いかにも知っているかのように書いているけれど、絵描きの調査なんてたかがしれている。多くの識者が労を重ねた文献や、連載をきっかけに情報をくれる人たちの助けを得て、ひとつの視点で不器用に織り上げているにすぎない。
 その織糸は、多くの助けと、訪れた現地で喚起された印象、そして描いている時に脳裏に降ってくる言葉たちだ。
 国見に遊んだ正岡子規は翌日愛宕神社を訪れる。明治二十六年、今の愛宕橋はまだない。子規は舟丁から簡素な木橋だった宮沢橋を渡り愛宕山へ向かう。
 私も宮沢橋に立ちスケッチブックを取り出した。それまで多くの文献や人々がくれた情報が想像力と出会い、勝手に脳内で映像を結び言葉を紡ぎ始めた。
「宮沢渡りにはどこで曲がるんだい?」と尋ねる子規が心に遊ぶ。そこには短い会話でも子規と繋がる人がいた。ふとその時「助け」という言葉が舞い降りた。
「そうか、「繋がる」という事は「助ける」ということなのか。」
「なんだ、今ごろわかったのか?」と、子規が私を振り返ってつぶやいた。

2012年02月23日

「子規の風景」 第16回 仙台大橋

さすがに個展の二週間前、インド渡航不在中の雑務と制作に追われ、ブログ更新が遅れてしまいました。

先週13日の(遅いよ!)河北新報夕刊に掲載された、正岡子規の宮城旅エッセイ、遅ればせながらアップします。
今回は子規仙台滞在です。


子規の風景 はて知らずの記をたどる

仙台大橋

「旧城址の麓より間道を過ぎ広瀬川を渡り槐園(かいえん)子を南山閣に訪ふ」
(はて知らずの記)


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 松島遊覧から戻った正岡子規は仙台市内に投宿。はて知らずの記の草稿には「針久に投ず」という一文がある。文献等に国分町付近と仙台駅周辺に同名の旅館を見つけたが、残念ながら両方とも今はない。子規がどちらの宿に泊まったのかは分からない。旅を通して二つの針久に投宿したとする説もある。

 どちらにせよ日々強烈な刺激を受ける子規にとって、宿は一日で最も心安らぐホームだったに違いない。ホームはたどり着く地でもあり、出発の地でもある。
 さて、松島の刺激を宿で鎮め、新しい一日に出発した子規は、仙台に何を見たのか。かかる抜粋を今にたどってみよう。

 大橋を青葉山へ渡り右に折れる。直進すると澱橋が広瀬川をまたぐ。南山閣とは国見の高台にあった伊達家老石田家の別荘だ。察するに子規は大崎八幡を横目に唸坂を上り、南山閣へ。訪ねた槐園(かいえん)とは、鮎貝槐園。気仙沼出身の歌人落合直文の弟だ。
 明治の時代、南山閣は文人歌人が集まるまさにホームだった。仙台での子規の数日がここに始まる。
絵と文/古山拓
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2012年02月02日

「子規の風景」 第15回 岩切

1月30日付け河北新報に連載の「子規の風景」をアップします。
今回の場所は、岩切です。

子規の風景 はて知らずの記をたどる

「駅の匂いが極上の土産」

岩切

「蓮(はす)の花さくやさびしき停車場」
子規


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 私は、旅がくれる贈り物の一つに、「匂い」があると思っている。旅先で無意識に嗅いだ街角の匂い、食堂の換気、通り過ぎる香水の香り…。場所ごとに異なる匂いは現地でしか得られない。

 旅先の匂いの記憶が効果を発揮するのは、日常に戻ってからだ。鼻先をかすめた空気が引き金となり、ふと旅の記憶が呼び覚まされる。はるかな地を空気まるごと思い出す、極上の旅の土産だ。

 そんな嗅覚を強く刺激する場所の一つが、駅だと思う。レールの鉄臭さをベースに、駅舎に行き交う人々のさまざまな思いが振りかけられているのだから、当然と言えば当然かもしれない。

 今回の句は、正岡子規が多賀城から仙台に戻る途中立ち寄った、岩切駅に詠んだものだ。彼は駅舎の匂いを吸い込んだ。旅を終え日常に戻った子規は、東京の空の下でふとした拍子に岩切の空気を思い出したのではないか、そう思いたい。

 塩釜、松島、そして多賀城とわずか2日間で史跡を訪ねまわった正岡子規。上野駅を出発した7月19日から、数えて12日がたっていた。

絵と文/古山拓
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2012年01月17日

「子規の風景」 第14回 多賀城

昨日1月16日付け河北新報に連載の「子規の風景」をアップします。
今回の場所は、塩釜=仙台の中間地点、多賀城です。その昔大和朝廷の時代、この多賀城が、朝廷側の東北蝦夷制圧拠点となりました。
その政庁跡が今の多賀城には残っています。
正岡子規が訪れたのは明治26年7月30日のことでした。

子規の風景 はて知らずの記をたどる

「風景の向こうに歴史」

多賀城


「のぞく目に一千年の風すゞし」
子規

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 富山観音を下った正岡子規は、再び船上の人となる。塩釜で船を下り、多賀城政庁跡へ先を急ぐ。そして遺跡の傍らに立つ「壺の碑」(つぼのいしぶみ)を前に詠んだのが、今回の句だ。壺の碑とは、西行らによって詠み継がれたみちのく憧憬(しょうけい)の歌枕なのだという。

 言うまでもないが、多賀城は、大和の時代、蝦夷(えみし)征伐において朝廷側の拠点となった地だ。対蝦夷戦の前線基地といえば分かりやすいか。そんな時代から時は千年以上過ぎ去った。けれど東北に根を持つ者にとっては、多賀城跡は今なおアイデンティティーを問いかけられる場所の一つと思えてならない。

 岩手生まれの私は、表題の句を歌枕にこの絵を描いたのか?と問われると、答えに詰まる。あえて返すなら、私の歌枕は、丘の向こうに連なる「蝦夷の時代から今につながる名もない人々」だ。

 過去は、時として墓石のような衣をまとう。しかし、何げない風景の向こうに目を凝らすと、キャストとカット割りを変えつつ、今なお繰り返される「歴史」が見え隠れしている。

絵と文/古山拓
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2011年12月20日

「子規の風景」 第13回 富山観音

昨日12月19日付け河北新報に連載の「子規の風景」をアップします。
今回の場所は、松島から北へ数キロの場所です。起点となる陸前富山駅周辺〜東松島市は先の津波で被災しました。
なくなられた方のご冥福をお祈りするとともに、一刻も早い復興を願います。


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「眼下の眺望 心に涼風」

富山観音

「涼しさのこゝからも眼にあまりけり」
子規

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 雄島を訪れた子規は、その日のうちに船で富山(松島町)へと向かう。目指すは奥州三観音のひとつ富山観音だ。
 下船後、彼は地元の子どもの道案内で、小山の頂きにある富山観音への急な坂をひたすら登る。体調芳しくない子規にとって、この行程はかなりの苦行だったに違いない。
 「はて知らずの記」に、実は「涼し」という言葉が、頻繁に登場する。真夏の旅ゆえ涼を求めたということもあるだろう。けれど子規の足跡をたどると、病による疲労を風景に癒やされたゆえの「こころの涼しさ」だったのではないか、と私には思えてならない。
 私が富山を訪れたのも夏の暑い盛りだった。汗だくになって階段を進む。「取材とはいえ、暑い夏は避けた方がよかったな」などと不埒(ふらち)な考えが頭をよぎる。登り切って、富山観音を背に振り返る。と、眼下に広がる松島に思わず息をのんだ。同時に心に吹き渡ったのは、思いもよらぬ一陣の涼風…。
 子規が松島眺望に詠んだ「涼しさ」の意味を、からだが理解した瞬間だった。

絵と文/古山拓
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2011年12月06日

「子規の風景」 第12回 松島・雄島

正岡子規の陸奥紀行「はて知らずの記」を宮城に辿る連載をしています。
当然、子規の著作をもとに、いろいろと下調べが必要になってくるのですが、すべてスムーズに進むわけじゃないのが、世の常。どうしてもハテナマークが解けないことがあったのですが、ひょんなことで、昨日氷解。

昨日、強風をついて、松島の某旅館に現地ロケハンで向かいました。取材が終わって、コーヒーを飲みながら旅館の方とディレクター氏と雑談。流れで子規の旅話になりました。原稿作成でつまづいてることを話すと、なんとその場で、ディレクター氏から明快な答えが!それは、子規が泊まった仙台の旅館の場所。
「ああ、◯△旅館か〜。それなら、オレの同級生の実家だよ。」

求めよさらばあたえられん、とは、言ったものです。
さて、そんな昨日の夕刊に連載が掲載されましたのでアップします。


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「魂の声に満ちる雄島」

松島・3


「細径ぐるりとまはれば石碑ひしひしと並んで木立の如し。」
(はて知らずの記より抜粋)

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 松島水族館裏手のヨットハーバーを横目に、岩塊をくりぬいたほの暗いアプローチを進む。と、そこに小さな島が浮かんでいる。その昔、修行僧が石庵(あん)を結び、死者の魂を鎮め祈ったという雄島だ。先の大津波で橋が流され、残念ながら今は渡ることがかなわない。
 塔婆のごとく石碑が林立する島は、まさに祈りの場所だ。子規も訪れているが、記述はわずか2行と「すゞしさを裸にしたり座禅堂」の一句で終わっている。
 私が雄島を訪れる度に思い出す島がある。それは、西のかなたアイルランドのはずれ、大西洋に浮かぶアラン島だ。
 アラン島を旅したのは10年以上前のことだ。岩盤からなるその島には土が、ない。それでも島民は岩を砕いて海藻を敷き、じゃが芋を育て、荒海へと漁に出る。何もないといえばそれまでの島だ。けれどそこは、無力な人間の「生きる」という、魂の声に満ちていた。
 雄島もしかり。主がいなくなった石窟に吹きつける風が魂の声となって胸に響く。雄島は私にとってのもう一つのアラン島なのかもしれない。

絵と文/古山拓
picture & text by Taku FURUYAMA all rights reserved






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